王妃マリー・アントワネットが遺した香りの物語
18世紀のフランス。14歳にしてフランス皇太子ルイ(後のルイ16世)に嫁いだオーストリアの皇女、マリー・アントワネット。混乱の時代を生きたフランス王妃は、この時代のファッションリーダーとしても絶大な影響力がありました。豪華絢爛なジュエリーやドレスで着飾るイメージのマリー・アントワネットが、現代へ受け継がれるフランス文化に残した珠玉の遺産…それは煌びやかな宝飾品でも、衣装でもなく、目に見えない、手で触れることのできない香りという文化なのです。
この記事では、近世フランス宮廷の香り事情に迫りつつ、その中でマリー・アントワネットが香りでいかにブームを牽引していったか、彼女が当時の宮廷文化にどれだけの変化を与えたのか、後世の文化への影響について、詳しく探ります。遥かなる時を経た現代から見つめ直しても、今なお輝き蘇るマリー・アントワネットのもうひとつの姿…香りの物語に触れてみましょう。
目次
近世フランス宮廷と香り文化
近世フランス宮廷において、香りは非常に重要な役割を果たしていました。特に17世紀から18世紀にかけて、香水は宮廷文化の象徴となり、社会的地位や個性を表現する手段として広く利用されました。ただ、香水は宮廷生活に欠かせないものではありましたが、現代のように純粋に香りを楽しむものではありませんでした。
当時の香り事情と常識
「水」は病気の源と考えられていた当時のフランス社会において、バスタブに湯を張る入浴の習慣はなく、高貴な女性たちはみな、酢を含ませた布で体を拭いていました。そして当時のヴェルサイユ宮殿はトイレの数が少なく、宮殿を訪れる貴族は自分のおまるを持参したといいます。その悪臭や体臭をかき消すために、香水を利用するというのが常識でした。そのため宮殿内は、ムスクやアンバーグリスといった動物性香料などを用いた強い香りに包まれていました。
マリー・アントワネットにとっての香り
そんなフランス宮廷に、若くして嫁いできたマリー・アントワネット。衛生先進国のオーストリア出身の彼女はバスタイムが大好き!花びらやハーブを浮かべた湯に浸かったり、入浴後には清潔な体にたっぷりの香水を染み込ませたドレスや手袋、メイクやウィッグなど身支度を整え、貴族たちに謁見したのでした。
幼い皇太子妃の入浴⁉という振る舞いにはじめは眉をしかめた宮廷社会も、彼女の香りの革命に否応なく引き込まれていきます。何より人々が魅了されたのが、王妃が好んだ植物由来の自然な香り。バラ、ジャスミン、すみれ、アイリス、チュベローズ、パチュリ、ローズマリー…爽やかで甘く、豊かでエアリーな香りは、それ以前の宮廷に蔓延していた単一で重く、スパイシーな香りを一掃するがごとく、瞬く間に宮廷の人々の間に広まったのでした。
このように、マリー・アントワネットは悪臭を隠す目的ではなく、純粋に香りを楽しむために香水を使うという、現代の私たちと同じように香水を嗜んでおり、当時の貴族の間にフローラル調で優しい香りの香水ブームを巻き起こしたのでした。
フレグランスのもう一つの役割
宮廷は美と贅沢の象徴でしたが、その中でも特に香りは重要な存在でした。この時代において香りは、単なる嗜好品ではなく、社会的地位を示すために欠かせない要素でした。香水は王宮での公式な場面や社交の場において、自己表現の手段として使用されていました。香りは、特に貴婦人たちにとっては、自己の魅力を増すものであり、他者との関わりにおいては一種の武器でもあったのです。
マリー・アントワネットの時代と香り
マリー・アントワネットの生きた18世紀後半は、ルイ16世の治世下でフランスが繫栄していた時代でした。しかし、表面的な華やかさの裏には、経済的な不安や社会の不満が溜まっていました。興味深いのは、この時期に香水がますます特権化されていった点です。フランスの貴族たちは、香りを使うことでその身分の高さを誇示し、上流社会の文化に影響を与えていきました。
マリー・アントワネット自身は、香水の独自のブレンドや新たなパターンを追求し、自らの存在感を高めようとしました。香りが持つ重要性を理解し、それを自らのアイデンティティの一部として巧みに利用したのです。彼女が好んだ香りは、時代の美意識や流行を反映しており、彼女の個性や権威、さらにはフランスの文化にも大きな影響を与えました。ここでは、マリー・アントワネットの愛した香りや、彼女が香りの流行をどのようにリードしたのか、について深掘りしていきましょう。
マリー・アントワネットが愛した香り
マリー・アントワネットは、植物の香りをこよなく愛しました。彼女が特に好んだ香りに、バラとすみれがあります。当時ヴェルサイユ宮殿で流行していた銀髪のかつらと自毛に、彼女はニオイイリスとカーネーション、バイオレットの香りがするお気に入りのパウダーをたっぷりと振りかけていました。そして、宮殿の庭園の一角に「プチ・トリアノン」という別荘を建て、香水にするための花々を多く栽培させました。彼女はこの「プチ・トリアノン」に咲く四季折々の全ての花を閉じ込めた”ブーケ・フローラル”という香気を望み、シチュエーションに応じて様々な香りを使い分け、当時の最新の香水にもアンテナを張り巡らせ試すなど、香りへの情熱が尽きることはありませんでした。お抱えの調香師を従え、これらの香りをブレンドして作られた個性的な香水を使用し、自身の存在感を強調しました。
香りの流行をリードしたマリー・アントワネット
マリー・アントワネットはファッションのアイコンであり、彼女が愛した香りも多くの人々に影響を与えました。彼女の香水へのこだわりは、単なる個人的な趣向にとどまらず、広く香りのトレンドへと繋がっていきました。王妃がフランス宮廷に持ち込んだ軽やかでフレッシュな香りは、当時の儀礼や慣例でがんじがらめの重く単一な宮廷文化に風穴を開け、人々に大きく受け入れられ、彼女が使用する香水は模倣されるようになりました。こうして、ますます多くの人々が香水を楽しむ文化が根付いていきました。
このように、マリー・アントワネットが愛する香りは単に香水の選択というだけでなく、彼女の生活や文化そのものを反映する要素となりました。彼女の影響は後世のフランス文化にも色濃く残り、今なおフレグランスの業界でその影響力は続いています。彼女が愛した香りは、時代を経てもその魅力が失われることはありませんでした。
香りがもたらした悲劇と受け継がれる思い
このように、生活の一部として香水を愛してやまないマリー・アントワネットでしたが、やがてこの香水が彼女を悲劇へ導くこととなってしまいます。ここでは、最後の瞬間まで香りを身に纏い、優雅さを保った王妃の姿と、彼女の愛した香りが後世の文化や産業に与えた影響について詳しく探っていきます。
フランス革命の嵐の中で
18世紀末のある夜、マリー・アントワネットは夫のルイ16世や子供たちと革命の嵐が吹き荒れるパリを脱出します。彼らは質素な身なりをし、身分を偽り、いくつかの町を何とか通過して行きました。しかし、王妃の故郷オーストリアまであとわずかに迫った国境の町で、王家は正体を知られ、革命軍に捕らえられてしまいます。身分発覚のきっかけとなったのは、マリー・アントワネットのつけていた香水でした。それはとてもエレガントで芳しい香りを放ち、当時の一般人にはとても手が出せない高級品だったため、王室の者だという身元が判明してしまったのです。こうしてパリからの逃亡は失敗に終わり、数年後に最後の時を迎えるその時にも、彼女はお気に入りの香水の小瓶を胴衣に忍ばせていたというのです。
いかなる時でも、優雅さや気高さ、自分自身を表現する手段である「香り」だけは、ごまかすことができなかったマリー・アントワネット。もし彼女が、これほどまでに香水を愛していなかったとしたら…。37歳という若さで処刑される悲劇を迎えることはなかったのかもしれない、と思わずにはいられません。
後世フランス文化や産業への影響
マリー・アントワネットは死後もなお、その香りは彼女の存在を永遠に刻むものであり、彼女の人生とその影響は今でも多くの人々に語り継がれることとなります。
彼女のお抱えの調香師の一人、ジャン=ルイ・ファージョンは、王室のお抱えという立場にありながら、フランス革命を乗り越え、後にナポレオンの調香師となりましたし、もう一人の調香師だったジャン・フランソワ・ウビガンの香水店もまた、混乱と転換の時代を生き抜き、現代では世界的なフレグランスメゾンとなっています。
このように、マリー・アントワネットと香りの関係は、単なる嗜好にとどまらず、彼女の生涯や時代背景、さらには現代まで続くフランスの文化にまで深く絡んでいることがお分かりいただけたかと思います。「不快な臭いを隠すためでなく、心地よい香りを清潔な体に纏う」という、当時の香りの意義を変革し、種々の香りの調合による香水の流行をリードしたマリー・アントワネット。彼女の香りへの愛は、その情熱は、遥かなる時を超え、今なお多くの人々に影響を与え続けているのです。
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【湘南】気軽に楽しむアロマ | nico_tto~かおりの教室~
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